横丁

焼き鳥・ヤキトンや煮込みなどの匂いの漂う濃密な路地裏空間の暖簾の先から響く酒を飲んでいる人達の歓声や嬌声。

横丁に赤提灯が灯る夕刻、折り重なる路面にあふれでた看板や赤提灯ある細い路地から人々のコミュニケーションが始動する。
無造作にあふれ出してるビールケースや食材の入ってるダンボール箱に路面看板や自転車、植栽等も、これまたこの空間に溶け込み昭和の面影残るノスタルジックな情景となる。

(株)東京都市再生は、この情景を今後も都市に残すべき文化遺産だと考えている。駅前の飲み屋横丁も駅前再開発などで普通のマンションやテナントビルに変わっていき、木造二階建て店舗がどんどん解体されて、どこの駅前も似たようなチェーン店で風景が画一化されていってる。

東京は「中野四十五番街」や「人世横丁」といった、このかけがえのない文化遺産をまた失っていってしまった。今現在の危機的な横丁は立石の「呑んべ横丁」であろう。

日本の横丁で風情があり路地的要素を具備している代表的な横丁といえば大阪ミナミの法善寺横丁を外せないであろう。法善寺横丁は2002年・2003年と立て続けに二度の火災を味わいながらも連担敷地制度で横丁らしさを承継しながらみごとに復活を遂げている。その歴史や再建事業スキーム等の詳細は、大阪府立大学特別教授の橋爪紳也氏の論文『連担制度で路地空間の再建を果たす』が詳しいので引用する。

法善寺横丁

法善寺横丁は、大阪ミナミの歓楽街のただなかにある。路地というには道幅がやや広く、通りというには狭すぎる。まさに横丁と呼ぶにふさわしい。通常は人の往来にはまったく不便はないが、天気が悪く傘をさしている時などは、頭上に張り出した看板類が邪魔だということもあるのだが、行き交う人たちは気遣わないとぶつかってしまう。石畳の情緒とあいまって、歩行者空間としてはもとも心地よいスケール感である。

火災と復興

平成14年9月9日、法善寺横丁が火に包まれたという一報が全国に流された。参道や水掛け不動が燃えたのだという誤解もあったが、実際は飲食店街である横丁の一部が全焼ないしは半焼した。道頓堀にあった旧中座解体工事のさなかに発生したガス爆発事故で、東隣にある老舗のうどん店と法善寺横丁の店舗郡の一部、合計19店舗が被災する。火災の直後、この路地は「大阪の文化」であり、元通りに復興してほしいという声が、文化人や常連のあいだから湧きおこった。義援のための募金集めも自発的に始まった。

しかし、2.7mの道幅は、現行の建築基準法では認められていない。4m以上に拡幅しなければならないことが新聞などで報じられた。これに対して、横丁の雰囲気を維持するべきだという世論がたかまる。

復興にあたっては思いを共有することが必要となった。特に注意を喚起したのは、いかに多くの人に愛されている界隈であっても、抜け道を求めるような再建はあり得ないという点だ。当初、地元には若干の混乱があった。補修での再建が可能であるといった根拠の曖昧な情報が外部の者から伝えられた。全焼なのに柱が1本焼けて残っていれば、それを根拠に半焼と言い張って、元通りの木造店舗に修理せよというような類である。確かに消失の度合いは上層階ほど激しく、1階は外観や店内の雰囲気がわかる程度には残っていた。なかには、この横丁だけを特別扱いせよ、超法規措置を請願するべしという無責任な外部の声もあったと聞く。横丁の復元を趣旨とする署名活動もひろがり、特別扱いに期待を寄せる商店主の心情も無理はなかった。しかし、いかに著名な店が集まる場所であって、なおかつ被害者であっても、他とは別の扱いをせよといった暴論に組みするわけにはいかない。

横丁の動向、一挙一動を報道しようと、地元の新聞社やテレビ局といったメディアが注目していた。復興に向けて、いかなる姿勢をとるのかが問われていた。注目されているがゆえに、より一層広く理解が得られる、慎重な判断や行動が求められた。多くの支援者に感謝を示しつつ、粛々と、かつ迅速な再建を願うというスタンスであるべきだと私たちは考えるようになった。

復興委員会の中心を担っていた皆さんと話をする中で、多くの店主の想いは、できるだけ早く元通りにしてもらって、前のように静かに商いを再開したいという一点に集約できた。現行法規では不適格であった木造の増築部分や、頭上に突き出した看板の類は何とか再現できないのかという声もあったが、法規制を遵守することを当然としたのはいうまでもない。結局、法善寺横丁の文化を語る上で、人間味のある雰囲気を醸し出している路地という空間を守ることが第一だという結論に達した。

また道幅を拡げてしまうと、もともと十分であるとは言いがたかった各店の敷地がさらに狭くなる。横丁の沿道の街区は、奥行きが10~12mで、横丁の入口付近には間口も余裕がある店舗があるが、中央部にはカウンターや座席、板場を無駄なくレイアウトし、対面でこだわりの料理を提供している小規模な店舗が並んでいる。建て替えを要した建物14棟のうち9棟が、3m未満の間口しかなかった。道路を拡幅すれば、街の雰囲気を保てないだけはなく、従前の業態が成立できないことになる。

連担建築物設計制度による復興

意見を交換するなかで、大阪市は建築基準法86条第2項に位置づけられている連担建築物設計制度を適用する方針を示した。周知の通り同制度は、狭小な敷地が多くあって基盤が十分に整っていない市街地を対象に、一定の区域内において複数の敷地・建物(既存建物を含む)を同一敷地とみなし、道路斜線制限等の形態規制といった規制を一体的に適用しようとするものである。ただし、区域内の土地所有者、借地権者全員の同意が前提となる。

法善寺横丁の場合は、消失した地域だけではなく、無事であった東側の店舗群も含めて横丁全体を一つの敷地とみなす。それによって、本来は個々の敷地に適用される容積率制度や建ぺい率制限、接道条件などの規制が一つの敷地として適用される。幅員2.7mの小路は建築基準法上の道路ではなく、敷地内の道路として残すことになる。横丁の個性であり、文化人たちが「大阪の文化」とまで言い切った道幅を保持したままの再建に道が開かれたのだ。

この方法によって容積率が240%が認められる。ただ連担建築物設計制度を適用するには、特定行政庁の認定が必要であった。大阪市では法善寺横丁の復興に際しては、防火上の配慮など固有の条件を求めるかたちになった。列記するならば、3階建て以下(高さ10m)とし耐火建築物とする、3階の外壁は通路中心より3.0m以上後退させて、奥行き0.9m、有効長さ1.8m以上の避難のためのバルコニーおよび避難器具を設けることなどであった。さらに法善寺横丁の風情、景観を残し、安全で安心なまちなみを再建するため、地元関係者の自発的総意に基づいた建築協定を締結することが認定基準に追加された。

もっとも法善寺横丁の骨格をなす道路は、建築基準法42条第2項に規定される道路であり、これをまたいで連担建築物設計制度の適応はできないことになっていた。そこで従来の道路を一旦廃止してから、改めて連担建築物設計制度を適用、幅員2.7mの道路を確保するという手順がとられた。

連担建築物設計制度は、特定行政庁の裁量権が大きな、既存の市街地を対象とした規制緩和政策である。地方分権と都市再生、双方の潮流にあって特徴的な制度だとみてよいだろう。だからこそ大阪市も、法善寺横丁を前提とした独自のモデルを示すことができたのではないか。また連担建築物設計制度による認定を行った京都や月島の先例と比べると、1916㎡と区域面積が広く、80mほどと道路延長も長い。さらには地権者がかなり多いにもかかわらず、地元の発意から3ヶ月強という短期間で認定がなされた点が注目される。小路の景観を守るという一点にあって、被害者以外の地権者や商店主の同意を得られやすかったのだと思う。

人の魅力、界隈の魅力

ようやく復興のめどがたった。そんなある日、悲報が届く。平成15年4月2日、今度は横丁の中から再度の火災が発生し、南側の一画を消失したのだ。もちろん想定外であった。もう一度、再建の道程が始まる。火元の店を含めて、延焼した店の中から横丁を抜けざるを得なかったところもある。しかし多くの人の想いが集まって、平成16年3月27日には最後の1件が営業を再開、復興を果たすことができた。2度目の火災現場跡には、死者を弔う意味もこめて、地蔵尊が祀られることになった。

法善寺横丁は1年にも満たない期間に2度の災害を被ったが、飲食店主たちの強いきずながあって、短い期間のあいだに全面的な復興を果たすことができた。今、横丁には、耐火性を高めた新たな建築が両側にならんでいる。多くの店がすっかり外観を改めざるを得なかったが、「大阪の顔」である飲食街が新たな表情を得たと好意的に解釈したい。

法善寺横丁復興委員会がまとめた『法善寺横丁復興の道のり 語り継ぐ復興記録集』では、「復興への評価」をいう頁に「行政の協力」「権利者法善寺の理解」「外部の励まし、世論の後押しと全国30万人の署名」「地元総意を示す復興委員会の立ち上げ」が早期の復興を可能にしたという見解を示している。失ったものは多かったが、得たものもあったという理解で良いだろう。由緒ある路地で商いをする人たちのコミュニティ、そして常連を含めたこの街に愛着を持つ外部の人たちの圧倒的な支援があればこそ、早急な復興を果たすことができた。これも路地の文化といって良いだろう。

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